山国である日本は、どの地域にも郷土を彩る山がある。北海道、岩手に次ぐ3位の面積を誇る福島にも名山が数多くあるが、真っ先に思い浮かぶのはあの山だろう。
令和元年10月5日(土)4時53分の始発で新宿駅へ。暑い。もう神無月なのに電車に乗る前から汗が滴り落ちる。季節はまだ夏。温暖化の影響なのか、秋が奪われてしまった。大宮駅から先輩の運転する車に乗り、東北道自動車道へ。那須高原サービスエリアで朝食。『とちぎゆめポークらーめん』で腹を満たす。
初日はハーフマラソンに参加する3人と合計4人のパーティー登山。最も短く人気のコースである八方台登山口。2時間で山頂まで行ける最短ルート。
出だしは緑が優しく、空気が瑞々しい。「会津磐梯山は宝の山よ」という民謡『玄如節』が思い出される。一部では紅葉も始まろうとしていたが、カラフルな山肌には程遠い。
歩いて30分ほどで着く「中の湯」の硫黄の匂いを嗅いで、ここが火山であることを意識する。初日は足慣らし。本番は翌日の単独行だ。帰りに明日の行動食である酒たれ饅頭を買う。
その後は、東山温泉『新滝』の千年風呂で旅の疲れを癒す。
東山温泉は、奈良時代の行基が発見。岩盤から温泉が湧き、江戸時代には会津藩の湯治場として栄えた。その後、昭和になると会津若松の奥座敷として発展。要は芸者遊び。熱海のような者である。
宿のお世話になった東山温泉『新滝』は、歴代の会津藩の湯治場だった岩風呂、戊辰戦争のときに土方歳三が刀傷を癒した猿の湯が有名。
全部で4種類の源泉かけ流しの温泉があり、夕食には「創作会津郷土料理膳」が待っている。
最も気持ちいいのが【千年の湯】自噴岩盤の岩風呂。泉質はナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉。海水に似た食塩を含む塩辛く無色透明な湯。湯冷めしにくく「温まりの湯」と呼ばれる。この湯は会津出身の作家・横光利一の産湯になったという。前夜祭はパーフェクト。
そして10月6日(日)会津若松駅から7時35分の磐越西線で猪苗代駅へ。タクシーを拾い、スキー場の登山口を目指す。運転手さんは子供の頃から父親に連れられ、何度も磐梯山に登った。急登の翁島登山口からも登り、「山頂まであとちょっと」という父の嘘ばっかりのせいで登山をやらなくなってしまったとか。31歳から自由気ままな山登りを始めた自分はラッキーの部類に入るかもしれない。
運転手さんは、雨の中の登山をするボクに「頑張ってください」と、のど飴をくれた。
8時26分、偶然にも仲間のマラソンスタートと同時刻にクライムオン。磐梯山はその昔「いわはしやま」と呼ばれた火山。明治21年の大爆発で死者500人以上を出した。早速の小雨。増税前に買ったザックカバーが活躍してくれる。昨日、弘法清水小屋で買った熊よけの鈴を鳴らしながら闊歩。標高差1191mをLEKIのダブルストックで駆けていく。山頂は濃霧のなか。それでも樹林の傘が雨から守ってくれるので、気分は清々しい。尾崎豊『Lonley Rose』が思い浮かぶ。
磐梯山の支峰である赤埴山を抜け、弘法清水へ。湧き水で喉を潤し、小屋のおかみさんと少し話をする。60年続く伝統の小屋で、先代の主のときは深田久弥さんも訪れたかもしれない。今では毎朝7時過ぎに小屋に着き16時に下山されるそうだ。磐梯山オリジナルの手ぬぐいを買って登路に戻る。最後の坂ではツアー渋滞につかまり、イライラが募るが、2時間15分で登頂。先輩もゴールした頃だろう。
山頂は1818メートル。素晴らしい数字の並びだ。にもかかわらず磐梯山の山頂は1816mとなっている。なぜ山の価値を落とすような設定にするのか理解に苦しむ。標高は山の身長であり、神様からの贈り物。そこを目指した先人たちの歴史と足跡が刻まれた聖地。細かいことを気にするなと言われるかもしれないが、山の民である日本人は登山の文化を失わないでほしい。
山頂では立ち止まらず、翁島ルートを下る。雨のせいで滑りやすく、思ったより時間をロス。しかし、磐梯山の神様は素晴らしい出会いを与えてくれた。この急登をストックなしで登るクライマーがいるので声をかける。74歳で日本百名山を目指しているクライマー。昨日は蔵王と安達太良山の1 day 2 summitをしてきた。この年齢にしてガチンコの登山をしていることが羨ましい。いや、登山でなくともいい。年齢や体力の衰えと戦い、挑戦していることが何よりだ。自分も同じ年になっても、ガチンコの勝負を挑み続けたい。今からできることをやろうと思った。
翁島登山口に下りてきたのは12時11分、3時間45分の短い山旅だった。登山好きで有名な天皇陛下も訪れたグランドサンビア猪苗代リゾートで磐梯山ジオカレー。下山後はスパイスの刺激が優しく疲れを取ってくれる。やはりカレーはクライマーにとって最強のパワーフード。次に来るときは残雪の4月。雪の威容を従えたばんだいさんである。