
下呂温泉での一夜の宿、「ゆらぎの里ひだ山荘」。温泉街を見下ろす閑静な高台に佇み、173段の石段を登った先の「温泉寺」のさらに上にある。隠れ里のような佇まいは、喧騒から離れた静謐な時間を約束してくれる。

創業は1965年(昭和40年)12月。まだ下呂温泉へのアクセスが限られていた頃から、この土地とともに時を刻んできた。さらに登れば、一泊3万円以上する名旅館「湯之島館」がある。「ひだ山荘」へ自らの足で登る、その道のりが、山小屋にたどり着く登山のような達成感を与えてくれる。

入り口には、歓迎の立て札。通常は団体向けのものだが、たった一人の宿泊者にも心を尽くしてくれるとは思わなかった。小さな心配りが、旅の疲れをほどいてくれる。

一泊朝食付きで11,325円。名湯・下呂温泉の源泉100%かけ流しの湯に包まれ、この価格は破格。日帰り入浴も可能だが、この宿で過ごす時間こそ、旅の醍醐味だ。

14の客室はすべて、名峰の名を冠している。その中で宿泊したのは4階の「穂高」。日本で3番目に高い峰、奥穂高岳。いつか雪山を登りたい。

都会の無機質なコンクリートに囲まれた暮らしに慣れた身には、和室の温もりが沁みる。

ひだ山荘は、全室が南向きで全面ガラス張り。南向きに大きく開かれた窓の向こうには飛騨川と温泉街。夜になれば、幻想的な灯りが街を彩る。
昼湯

日帰り温泉「白鷺乃湯」に浴したばかりだが、居ても立ってもいられない。15時の開場とともに、1階の温泉へと向かう。

先に男性の湯客がいたが、すぐに出られた。籠の数から8人が入れる浴槽であるとわかる。

下呂温泉の湯宿は、12の源泉を混合し、泉温55℃で供給される。ひだ山荘の湯も例に漏れず、55.6℃の「高温泉」。白鷺乃湯よりも熱く、慣れるまで少し時間がかかる。しかし、一度肌が馴染めば、もう離れられない。

浴場に入ると、そこには石造りのシンプルな内湯がひとつ。これがいい。余計なものは一切ない、ただ湯と向き合うための空間。この純粋無垢さがいい。
pH9.1というアルカリ性。共同浴場よりもスベスベ度が高く、肌を優しく包み込むような感触。源泉かけ流しの贅沢。浴槽に、惜しみなく注がれる湯。熱さとともに、湯の力が全身を包み込んでいく。

成分の特徴としてはナトリウムと塩化物イオンの含有比率が高い。ただし、成分量は215mgなので、塩化物泉の基準値である1000mgには届かない。だからペロッと飲泉しても無味無臭。保湿成分であるメタけい酸も59.7mgで、「美人の湯」の基準である100mgに遠く及ばない。なのに、この気持ちよさはどうか。

ボディソープで体を洗ってから湯に浸かると、その真価が発揮される。湯に触れるたび、肌が滑らかになっていく感覚。「スベスベ日本一」と言っても過言ではない。湯の美人度は、白鷺乃湯を上回る。

下呂温泉の湯宿でも数少ない、正真正銘の源泉かけ流し温泉。ただの温泉ではなく、ひとりの美しい女性に出会ったような感覚。

庭の緑の安らぎと、湯の癒し。下呂温泉の摩訶不思議は、湯あたり。単純温泉は最も「湯あたり」を起こしにくい温泉だが、長くは浸かれない。露天がないため、湯の熱がこもり、体がじんわりと火照っていく。まさに「美人薄命」。一途な愛に身を捧げた夏目雅子のように、儚くも、強く心に刻まれる湯。

湯上がりには「下呂プリン」のまろやかさが、ひだ山荘の温もりと重なる。湯の余韻とともに、体の芯まで溶けていくような味わいだった。
夜湯

夜の帳が下り、温泉街の灯りが揺れる19時。再び、ひだ山荘の湯へと向かう。

夜の湯はまた違う表情を見せる。まるで『魚影の群れ』の夏目雅子のように、艶やかで豊艶。昼間の清らかな湯が、夜になると官能へと変わる。
一度ならず、二度、三度。22時には、もう一度浴びずにはいられなかった。

湯上がりに、夜景を眺めながらレトロ「下呂プリン」。こんな贅沢をしてしまっていいのかと、罪悪感すら芽生える。しかし、これは旅。許される背徳の快楽だ。
朝湯

朝日がゆっくりと昇る。まだ月が空に残る時間、旅の終わりを惜しむように、4度目の湯へと向かう。

朝の湯は、また格別。湯の熱が心地よく、身も心もすっかり馴染んでいる。

庭園を眺めながら、しばし陶酔。今日の予定は湯を上ってから考えよう。今はこの絶世の美女と時を過ごす。何も考えず、ただ湯に身を委ねる。流れる時間。名残惜しさがこみ上げてくるが、旅には終わりがあるからこそ、美しい。

湯郷を一望しながらの朝食。飛騨名物「朴葉みそ」、地元「槌屋農園」のふっくらしたお米、朝採れの新鮮な野菜。

飛騨納豆、温泉たまご、どれも美味しい。ご飯もお代わりした。一番心に残ったのは、飛騨名物の生芋こんにゃく。ツルッとした食感と澄んだ味わいが、この湯の感触と重なり合う。この余韻を抱きながら、次なる湯へと向かう。旅は続く。湯の香りを残しながら、心の中には、まだ下呂温泉が静かに湛えられていた。
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