
令和7年2月17日、月曜日。もう日付が変わろうとしているというのに、バスタ新宿の待合室は、大きな荷物を抱えた旅行者で溢れかえっていた。それぞれの旅の物語が交錯する交差点。長岡行きのバスは、大雪のため運休。昨年の7月、夏の盛りに訪れたときは、命の危険を感じるほどの暑さだったが、雪国は別世界。ふと、下呂温泉の雪はどうだろうと思う。しかし、完全に東京の感覚のまま、天気予報すらチェックしていない。

「珈琲エーデルワイス」と「コメダ珈琲」で時間を潰し、愛知県美術館でパウル・クレー展を観たあと、11時43分発のJR特急ひだ9号に乗る。目指すは湯の町・下呂温泉。

深夜バスの疲れから、列車の中では浅い眠りに落ちた。気づけば、車窓の景色はゆっくりと変わっていく。岐阜の住宅街を抜けると、田園風景が広がり、美濃を過ぎ、白川へ入るころには山深くなり、飛騨金山を過ぎると、一面の銀世界。雪の香りが、車窓越しに伝わってくる。下呂温泉が近い。

13時28分、下呂駅に到着。ホームには名古屋へ帰る若者と外国人観光客が溢れていた。火曜日の平日だというのに、この賑わい。理由は夜になればわかることになる。

一宿のお世話になる「ひだ山荘」のチェックインが15時。まずは日帰り温泉だ。ゲロ大橋の向こうに端正な顔立ちの中根山(下呂富士)が見える。いつか登ってみたい。

下呂大橋を渡り、左に河鹿通り、右が桜通り。美味しそうな飛騨牛ラーメンがあって食べたかったが、若者が行列を作っている。

そのまま奥に進み、白鷺橋に来ると唐突にチャップリン像。観光客が映画について楽しく語らいながら温泉街散策できるような「映画通り」を目指して、平和のシンボル「チャップリン像」を造ったらしい。あまり意味がないように思えるが、観光客は珍しがって写真を撮る。彫像でもチャップリンは日本人をスマイルにする力がある。『犬の生活』のときのポーズだろうか。

白鷺坂を登ると、「日本三名泉」の標識が現れた。有馬、草津、そして下呂。それに加えて、テルマエ・ロマエの本場ローマ、さらには「入浴」の読みでニューヨークまで。親父ギャグなのか、若者向けのユーモアなのか。だが、温泉街にはこうした遊び心がよく似合う。

若者が「ビーナスの足湯」に浸っている白鷺乃湯は、大正15年(1926年)創業の日帰り温泉。下呂温泉は、白鷺が湧き出る湯を見つけたという伝説を持つ。その名を冠する温泉に足を踏み入れると、歴史が静かに迎えてくれる。

陽が落ちて夜になれば、ローマのテルマエ・ロマエ感がすごい。

入浴券430円。外国人向けに英語、中国語、韓国語などの券売機もある。こういう心配りが外国人の誘致につながる。

2階の休憩所も落ち着く。都会の若者は特に心休まるだろう。窓から飛騨川が見える。

白鷺乃湯の泉質は「アルカリ性単純温泉」。pH値8.9、泉温55℃の「高温泉」。湧出量は毎分2300リットル。循環装置を使い、気温の高い日に水道水の加水も施されているが、その素性の良さは揺るがない。浴槽の湯温は41.6℃。7日に1度の入れ替えと、衛生管理のための塩素剤。管理の手は加わっているが、それでもなお、この湯は純粋無垢な輝きを失わない。豊かに溢れる熱き命の湯。

これまで出逢ったなかで、最も美人の湯。つかれば肌が美しくなるのではなく、湯そのものが、凛とした絶世の美女。一途に夫を愛する「お市の方」のような気品に満ちた天下逸品の美湯。温泉ソムリエをやっていると、泉質だ効能だ騒ぎ立ててしまうが、単純温泉 is Best。湯に余計な化粧、飾りはいらない。
檜の浴槽に身を沈めると、スベスベとした木肌が従者のように背中を押す。受付のおばさんが言う。「そろそろ入れ替えの時期なのよ」。長年、下呂温泉の美人の湯と共にしてきたからこそ、スベスベの艶を帯びている。良いタイミングで来れた。
白鷺乃湯に洗い場はあるが、石鹸もシャンプーもない。迷わず浴せ、浴せば分かるさ。ただ湯に浴すのみ。原点を見せてくれる「温泉ルネサンス」。ただし、美人薄命。露天がないから蒸気がこもり、湯当たりしやすく、長湯はできない。しかし、それこそがこの湯の魔性。長湯を許さないから、また入りたくなる。

時刻は14時34分、空は明るい。目の前の「下呂プリン」でバニラソフト500円を買って乾杯。湯宿「ひだ山荘」に向かって再び白鷺坂を登って行った。
クアガーデン露天風呂

下呂温泉を発って名古屋に向かう前、「ひだ山荘」で朝7時から朝湯につかり、美味しい朝ごはんを頂いて10時チェックアウト。12時22分の特急ひだ号に乗る前に、惜別の温泉。名残惜しさを胸に、もう一湯浸かっていく。下呂温泉が素晴らしいのは、内湯のみの「白鷺乃湯」、露天風呂のみの「クアガーデン露天風呂」と分かれていること。草津三湯の「御座之湯」「西の河原露天風呂」と同じ。

クアガーデン露天風呂の創業年は不明だが、白鷺乃湯から数十メートル離れた河鹿通りにある。多目的露天温泉保養館であり、飛騨川のせせらぎを耳に、打たせ湯、三温の湯、箱蒸し、泡末浴など6種類の温泉浴を愉しめる。

地下に降りていく温泉は御多分に洩れず、気持ちいい。期待が高まる。

立派な門構え。入浴料は700円で、白鷺乃湯より高い。温泉寺にあった割引券で1割引きになったので、630円。

2階には休憩所があり、若いカップルが浴衣姿で飛騨牛乳を飲んでいた。

朝10時と朝風呂だが、若い湯客ばかり。韓国人の二人組もいて、男女カップルのようだ。女風呂から韓国語の大きな歓声が聞こえてきた。

数十メートルしか離れていないので、泉質は白鷺乃湯と同じ。ただし、浴槽が変われば印象も違うもの。スベスベ感は白鷺乃湯のほうが感じる。あとから入ってきた年配客も、湯の質は白鷺乃湯が上と言っていた。しかし、クアガーデンは水風呂があるのがうれしい。草津温泉の合わせ湯にあたる、三温の湯がある。

ユニークなのが顔だけひょっこり出すサウナ「箱蒸し」。韓国人は、ジェットブロの「泡末浴」にばかり浸かっていた。白鷺乃湯のセットでの入浴を勧める。

湯上がりに飛騨牛乳160円。受付が年配のおばさんから、若い男性に交代していた。次の世代に下呂温泉は着実に受け継がれている。10年後も大丈夫だ。
遠ざかる湯の香りとともに、旅の終わりが近づいている。
12時22分の特急ひだ号に乗る前に、「ひさご」で「きのこそば」に舌鼓を打つ。下呂の旅は、最後の一杯まで、心と体を温めてくれるものだった。
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