湯遊白書〜そこに温泉があるから

ここは天国かい?いや、温泉だよ。日本、アジア、世界の温泉を巡って紹介します。

名山の麓に名湯あり『御座石鉱泉』

eyecatch鳳凰山の登山口にある『御座石(ございし)鉱泉』は宿泊も可能な年季の入った大きな民宿。韮崎駅までのバスの切符も販売し、庭では犬が遠慮なく客に吠えるてくる。“鉱泉”とは、地中から湧き出た水や湯を指す。温泉は鉱泉の一種。

鉱泉の温度が25℃か、硫黄などの成分が一定量含まれていれば「温泉」になる。つまりは、鉱泉は温泉の親のようなもの。温泉はマイルドな響きだが、鉱泉というと少しカッコいい。

御座石鉱泉の主人は細田さんという、おばあちゃん。70歳は超えているはずだが、非常に元気で、声は40代。入り口には、テレビ番組で訪れた東野幸治のサインがあり、入浴料は1,300円(おそらくGW中だから)と少し高い。

お年寄りが営んでいるからか、手入れも行き届いておらず、率直に言って汚れた温泉である。個人ブログや口コミのサイトを見ると、ほぼ全員が最低の評価を下している。

浴室は基本的に1槽のみで、客が多いときはもう1つを開放する。ガラリと引き戸を開けて見ると、クラシカルな木の板で覆われた浴槽が顔を出す。

人工的に沸かしているので、底がぬるい場合があり、はじめに客が板で湯もみをする(今回はちょうど良い適温だった)。シャワーもなく、シャンプーは粗末で汚れた固形の石鹸があるのみ。おまけにお湯と水が別々に出る旧式の蛇口で、自分でうまい具合に温度を調整し、洗面器で混ぜなければいけない。

これでは評価が地に堕ちるのも無理はない。だが、これでいいのだ。もし近代的に完備され、なに不自由ない環境であれば、風呂も水洗トイレもない山小屋の労が消し飛ぶ。

2016年に約1ヶ月半、チベット側のエヴェレストで生活をしたが、当然、標高6000メートルに風呂などない。下山し、チベット第2の都市、シガチェの街に戻ってきたとき、さぞ90日ぶりの風呂は極楽だろうと想像したが、これが意外にも逆だった。

あまりに近代化された風呂とシャワーを浴びたことで恵まれ過ぎる環境が、これまでの山生活を打ち消してしまった。ベースキャンプの不自由さを否定したような気になり、むしろ居心地の悪さすら感じてしまった。

その点、御座石鉱泉の“適度な不便さ”は、山小屋の延長という感じで、徐々にシャバの生活に戻る助走となる。「生き返った!」と心が躍り、お風呂がある生活への感謝を感じられる。もちろん、ただ宿泊しに来るだけでは不満でいっぱいだろう。だが、風呂なし登山の後であれば、これほどありがたい環境はない。

値段に関して言えば、こんな山奥で営業をしてくれているのだから、割り増しの料金を取るのは自然の摂理。何の不満もない。嫌なら、駅に戻ってから、数百円のレジャー温泉や銭湯に浸かればいい。現代人はとにかく、贅沢に慣れすぎている。平成という時代に多くの人間が贅沢という病に侵され、それを令和に引き継いでしまった。

鳳凰山を登った後は、再び御座石鉱泉のお世話になるだろう。5月3日に下山してきたとき、御座石鉱泉の庭では、黄色い水仙の花がそよ風に揺れていた。

花の一つ一つが万歳三唱し、登頂の凱旋パレードのように迎え入れてくれる。これは細田さんが、根分けして丹念に育てた結晶の数々である。写真を撮らせてもらうと「インターネットで宣伝してくださいね」と言われた、これで、約束を果たしただろうか。今度はもう少し時間に余裕を持ち、細田さんが打った蕎麦も味わってみたい。

れもが手作業、なにもかもが手作り。不便だけど、あったかさがある。雪山から降りてきたとき、こんな温泉に包まれたい。