
佐藤泰志の小説『オーバー・フェンス』がAmazonから届いたのは4月に入ってすぐだった。2020年の春。世は初めて経験するコロナ禍の緊急事態宣言に揺れていた。仕事を終えて北新宿のアパートに帰り、堅めに揚げたポテトチップス、ベビーチーズ、辛口のカルパスを交互に口に運びながら小説のページをめくる。
「自分には考える時間も、考えない時間も同量に必要だ」。自粛やSTAY HOMEが叫ばれるなか、ゴールデンウイークに函館に行こうとしている僕や先輩にぴったりのセリフだった。しかし、5月に入る前にホテルから「東京のお客様は宿泊できません」と拒否の連絡。我々は海を越えられなかった。
2018年に亡くなった登山家の墓参りに先輩と行く。2年経っても、その願いは叶えられない。登山家がいた世界、登山家がいない世界。その狭間で僕は迷子になっていた。先輩の体調はどんどん悪くなり、もう先は長くないかもしれないと言っていた。ふたりの最後の旅になるかもしれない。自分を生まれ直す場所は北海道の今金にしたい。
年が明けた令和3年、北海道新幹線と宿泊所を予約。まだ緊急事態宣言は解除されていないが、宿泊が許された。あとは津軽海峡を越えるだけ。連休初日には立山に行き、最終日に北海道に向かう。黒部ダムと青函トンネル、先人が築いた山と海の偉業に身を置く。何かのメッセージかもしれない。

大宮駅に向かう始発の埼京線。車窓から射し込む朝日がまぶしい。構内では駅弁の販売はなく、コンビニでサンドイッチだけ買う。北海道新幹線では二人とも爆睡。10時50分に函館北斗駅に到着し、レンタカーを借りて今金町を目指す。
登山家が助手席に乗っていたら「もっとスピード出せないの?あの車、抜いて」と小言のオンパレードだったろう。その後すぐに「運転ありがとうね」と感謝する不思議な人だった。登山家と違い、山の先輩は文句は言わない。下手な運転でも黙って耐える。今回、先輩は免許を持ってこなかったと言う。実は嘘なのだが、事故を起こしたら終わりだよというプレッシャー。先輩らしい。

信号も少なく、ジェットコースターより速く飛ばしたので約150キロの距離もあっという間。今金に入ると小雨が降り出した。どこに行っても雨が降る世界一のレインメーカーだった登山家らしい歓迎。あいにくの天気なので線香や花は翌日に供えることにして、登山家のお父様がオーナーの『ホテルいまかね』に向かう。

風車、チューリップ、赤レンガ、ジャガイモ畑。そして、情熱と奇行に溢れたアーティストを輩出した点で、今金町はゴッホの生まれたオランダと似ている。

5年前に先輩と今金長に来たとき、今金男爵のじゃがバターを食べた。熊肉や新鮮な魚の刺身より土の生命力を感じるジャガイモのほうが圧倒的に美味しかった。

日本一の清流・後志利別川(しりべしとしべつがわ)が町の真ん中を流れ、清流が運んだ沖積土に豊富な栄養分が含まれる。

水、土、そして寒暖差10℃以上の9月の気温が甘みの深い男爵イモを生む。ジャガイモは標高の高いアンデス山脈が原産。クライマーにピッタリな穀物。
登山家は今金の大地に自分という種を蒔き、自我を収穫して今金を離れた。

ホテル今金に到着すると、隣に併設された『あったからんど』に入浴。今金の田園地帯に佇むオランダ風の外観、道南杉を使った温かみのある館内。
泉質は「ナトリウム-塩化物強塩泉」。海水の1.2倍の塩分濃度という温泉で、かつて体重の軽いおばあちゃんの身体が浮いたほど。温かい海のゆりかごに揺られているようにプカプカして気持ちいい。
飲泉すると、しょっぱい。その味こそが温泉を掘り当てた人たちの汗の一粒一粒。開拓者の鐘が聴こえてくる。

あったからんどは「地元の老人をいつでも温泉に入らせてあげたい」と、登山家のお父様が掘り始めた。1995年に完成。出資してくれた方が、何人も完成を待たず亡くなっている。オーナーのお父様は時どき温泉を訪れるが、スタッフに注文は一切言わず「ありがとう」しか言わない。
お父様が経営する眼鏡屋さんを訪ねたとき「あなたの年齢だと、もっと悩んでほしいんですよ」と言ってくださった。感謝は苦しみの中でしか生まれない。

登山家のお墓には「夢」が刻まれているが、「ありがとう」こそがふさわしい。

川は流れ、人を運ぶ。ひととひとが出逢い交流が生まれ、文明が花ひらく。川は素直だ。水面(みなも)には心が映る。川は自分と対話させてくれる。天に登り、地に還る湯。ありがとうの温泉。

地上で得た名声やお金を山に溶かす。何かを失うために登っていたクライマー。幼少の頃の夢がピーターパンになることだった少年はヒマラヤの地でイカロスになった。登山家の眼の前にあったのは、失われた地平線。登るたびにゼロに還って、新しい自分に生まれ変わる。生きるためでも、死ぬためでもなく、生まれ直すために。
クライマーにとって温泉は鮭がのぼる川。新たな自分を生まれ直すための河。あったからんどの温泉は、登山家にとって産湯だったに違いない。
先輩とつかる湯けむりの時間。登山家の面影が揺れる。もう此処に登山家はいない。先輩も其処にいない。我々は、それぞれの山を登っている。
- 住所:北海道瀬棚郡今金町今金435-270
- 電話:0137-82-3711
- 休み:なし
- 料金:490円
- 開湯:1995年
- 泉質:塩化物泉(ナトリウム-塩化物強塩泉)
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